昭和46年03月30日 夜の御理解
今日午後の奉仕の時でしたがね、久留米の野口つぁん達が、五名か六名かでお礼参拝して見えた。昨日あちらのお祭りを、謝恩祭の時に、これからの野口つぁんの富永さんの信心、今年こそはここんところを、一つ自分のものにして行かなければならないと云う様な事を、私が頂いて居るけれども、お話を致しませんでした。それで今日、みんなで見えて、先生、その事をどうでも分からなければならないところを一筆書いてくれと云うから、私こんな事を書いてやりました。
「大根に人参の紅さを求めず、人参に大根の白さを迫らず、午旁にその黒きを讃え、かぶらにその青さを褒む。天地の心は広きかな。」と、云う風に書いて渡しました。私はね、お道の信心をさして頂いて、大きなおかげを頂きたいと言うなら、もう絶対、ここのところを頂かなければいけないですね。もう一途に、私の思うとる通りに、皆を動かそうとか、そうでなければいけないとかと云うところに、心がイライラしたり、落ち着かなかったり、腹が立ったりする訳です。
いわゆる先日から頂きます様に、「楽」楽な心と云うのはいわゆる「大きな心」だと頂く様にね、自分の心が、いよいよ、それこそ神様の心を心としてと云うことは、云うなら「天地の心」を心としてと云うことです。天地の心は、今、私が申しました様にね、大根の白さを人参に、私のように白くあれと云う訳にはいかん、人参の紅いのだからと云うて、人参の様に紅くなれと云った様な、求めず迫らず。
いわゆる午旁の黒いところを褒め、かぶらの青いところを褒めていく様な心。そういう心が、私は自然の心であり、いわゆる神様のお心だと思う。その自然の心を、神の心を心としてと云う修行こそがお道の信心の、私は修行の焦点にならなきゃならん。だから心が大きゅうなる。大きな心で大きな事を願わせて貰うから、それが成就すると云うことになるのじゃないかと思うですね。
どうぞ。